最近、食事への感謝が薄れているように感じる。お腹が空けば何かを食べ、「いただきます」も「ごちそうさま」も言い忘れる。口にしたとしても、その言葉に本当の気持ちが伴っているのか、自信がない。
肉や魚は、かつて生きていた。それを考えると、何も感じずに食べている自分に違和感を覚える。ところが、次の食事では、その違和感さえ忘れてしまう。
私が気にしているのは、挨拶の有無だけではない。大切にしたいと思っていることを、日常では簡単に忘れられる。その落差が、どこか不誠実に思えるのだ。
ただ、これを「自分の感謝が足りない」という反省だけで終わらせてよいのだろうか。
食事への感謝を考えるには、食べる人の心だけでなく、何を知ることができ、どんな条件で食べ、何を変えられるのかまで問う必要がある。
これが本稿の立場である。
食の分業や商品化を一律に否定するのではなく、それらの仕組みのなかで、生命や労働との関係がどう見え、責任がどう配分されるのかを考えたい。
なお、「現代人は昔より感謝しなくなった」と、ここで証明できるわけではない。個人的な実感から、社会全体の道徳的な衰退を推定することは避ける。研究が示す範囲と、それを手がかりにした私の考察は、分けて進めていく。
「いただきます」の意味も、社会のなかでつくられてきた
まず、「昔から変わらない感謝の心を、私たちが失った」という説明を疑っておきたい。その説明は、感謝する対象や理由が、時代を通じて同じだったことを前提にしている。
鈴木公啓による2025年の研究ノートは、明治期以降の資料を調べ、食事の挨拶に結びつく感謝の対象が変化してきたことを示している。戦前の資料では食べ物、親、神、生産者などが対象となり、戦中には兵士や国、天皇への感謝も現れる。戦後の資料をたどると、高度経済成長が終わる頃から、食べ物の命への感謝が強調されるようになる。[1]
これは資料に残った言説の研究であり、当時の人々全員の内心を調べたものではない。「命への感謝は昔には存在しなかった」とまで言えるわけでもない。それでも、「いただきます」の意味を、一つの不変の伝統として扱うことには慎重であるべきだろう。
ここから考えられるのは、感謝が純粋に私的な感情であると同時に、何に目を向けるべきかを教える社会的な作法でもある、ということだ。
命への敬意を持つことと、作ってくれた人に礼を伝えることは、重なりながらも同じではない。どちらを前面に出すかによって、食卓から見える関係は変わる。
だから、感謝を問い直すことは、その価値を否定することではない。自分が受け継いだ言葉を、何に対する、どのような態度として使いたいのか、選び直すことでもある。

値札には、食べ物を支える関係のすべては書かれていない
例えば、売り場で肉を選ぶ場面を考えてみる。価格、量、部位、産地、期限を比較すれば、買い物はできる。しかし、その動物がどのように飼われ、誰がどんな条件で加工や運搬を担ったのかまで、目の前の商品から分かるとは限らない。
ここで重要なのは、「知らないこと」と「関係がないこと」の違いだ。生産者と会わなくても、その仕事に依存して食べている。関係は存在しているのに、取引の場では、その全体を意識しなくても済む。
商品化は、単に情報を減らすことではない
マルクスは『資本論』第1巻の商品物神性の議論で、人々の労働を結ぶ社会的な関係が、商品どうしの関係として現れることを論じた。これは、単に商品の由来を知らないという話ではなく、人と人の関係が、交換される物の価値という形を取るという議論である。[2]
この視点を食卓に引きつけるなら、問いは「なぜ生産者の顔を思い浮かべないのか」だけでは足りない。「その人の働き方や、その動物の扱われ方を、私たちはどのように判断し、変えることができるのか」まで広がる。
例えば、生産者の写真が包装に載っていても、取引条件が公正かどうかは、それだけでは判断できない。顔が見えることと、関係の仕組みが分かることは別である。
また、価格は無意味な情報ではない。限られた予算で暮らす人にとって、価格は切実な判断材料だ。問題は、価格を見て買うこと自体ではなく、価格だけで、その商品を支える関係まで評価したことにしてしまう点にある。

「肉の見え方」は、動物への反応にも関わる
この距離には、心理的な側面もある。KunstとHohleが2016年に発表した一連の実験では、加工された肉の提示は、加工されていない肉の提示に比べ、元の動物への共感を弱めた。また、肉と動物との結びつきを想起させる見せ方や呼び方によって、共感、嫌悪感、食べたい程度が変わる結果が報告されている。[3]
ただし、これは日本の食事への感謝を直接測定した研究ではない。食欲や共感の変化を、そのまま「感謝の減少」と読み替えることはできない。
それでも、何に心が動くかを、本人の優しさや誠実さだけで説明しないための手がかりにはなる。食べ物がどのような形で現れるかも、私たちの反応に関わっているからだ。
食卓に届くまでに失われるのは、命そのものの価値ではない。その命や労働との関係を、具体的に捉える手がかりなのかもしれない。
「分かっているのに忘れる」を、生活の組み立て方から考える
食べ物の背景を知れば、毎回感謝できるようになるのだろうか。私自身の経験からすると、知識があることと、食事の場面でそれを思い出すことの間には、まだ距離がある。
この距離を考えるうえで、食事を単独の選択ではなく、買い物、仕事、調理、保存、家族との予定などが結びついた営みとして見る視点が役立つ。
社会学者デイヴィッド・エヴァンズは、家庭の食品廃棄を扱った研究で、廃棄量から人々の「使い捨て気質」を推定する見方を批判した。民族誌的な事例をもとに、食品がごみになる過程を、食料調達の習慣、日常の予定の変動、家族の食事をめぐる関係、時間的な条件から分析している。[4]
例えば、数日分をまとめて購入したあとで予定が変わり、使うつもりだった野菜を傷ませてしまう場合を考えよう。これは本稿の例だが、対策は「もっと感謝する」だけでは具体化しない。購入量を変えるのか、保存方法を変えるのか、予定の変動を見込むのか。生活のどの部分を調整できるかが問題になる。
同じことを、感謝を思い出す習慣にも当てはめてみたい。毎食の直前に気持ちを奮い立たせるより、箸を持つ前に一度料理を見る、といった行動の位置を決める。そのほうが少なくとも、「忘れないようにする」という曖昧な目標より、何をするかが明確になる。
これは、食品廃棄の研究から感謝の習慣化への効果を証明した、という意味ではない。価値観を実践するには、価値観の強さだけでなく、それを実践できる生活上の条件も考えるべきだという提案である。
食品ロスは、消費者の「感謝不足」だけでは説明できない
心がけと仕組みの違いは、食品ロスを考えると、さらに明確になる。
2026年6月に公表された政府推計では、2024年度の日本の食品ロス量は約461万トンだった。内訳は事業系約237万トン、家庭系約224万トンである。[5]
この数字から、人々の感謝の程度を測ることはできない。また、廃棄が生じた場所を、そのまま責任の所在と考えることもできない。家庭の廃棄には商品の販売単位や日々の予定が関わりうるし、事業者の廃棄にも需要の変動や取引条件が関わるからだ。
具体例が、食品流通の「3分の1ルール」である。農林水産省は、賞味期間の3分の1以内に小売店舗へ納品する慣例によって、期限まで日数が残っていても、納品できず廃棄につながる可能性を説明している。納品期限の緩和も進められている。[6]

商品の賞味期限と、取引上の納品期限は、同じではないということだ。例えば賞味期間が6か月の商品なら、製造から2か月以内の納品を求めるのが、このルールの考え方になる。
食卓でどれだけ真剣に「いただきます」と言っても、すでに上流の取引で行き場を失った商品を、それによって救うことはできない。必要なのは、納品条件や発注、在庫管理を見直す働きかけである。
もちろん、家庭での買いすぎや食べ残しを減らす意味がなくなるわけではない。両者を混同せず、心がけを変えることで対応できる問題と、ルールを変えなければ対応できない問題を分ける必要がある。
なお、行政が心がけだけを求めているわけでもない。実際に商慣習の見直しが進められている以上、批判すべきなのは「構造への対策は存在しない」という架空の状況ではなく、問題を感謝や節約の話だけに縮めてしまう説明の不十分さである。[6]
「みんなの責任」は、「全員に同じ責任」ではない

ここで、責任の配分を考えたい。食べる人、生産する人、販売する企業、制度を設計する行政は、同じ情報も、同じ決定権も持っていない。
環境政治を論じたマイケル・マニアテスは、2001年の論文で、環境問題への対応を個人の消費選択へと狭める「責任の個人化」を批判した。その焦点は、消費者として買い方を変えることばかりが強調され、市民として制度や組織を変える可能性が見えにくくなる点にある。[7]
これは主に米国の環境政治についての議論であり、日本の食育や「いただきます」を直接分析したものではない。ただ、食をめぐる責任を考える際にも、検討に値する問いを与えてくれる。
例えば、消費者には「よく調べて、適切に選んでほしい」と求める一方、その判断に必要な情報が示されていなければ、責任だけが先に渡される。選択肢そのものが乏しい場合には、知識があっても選び直せない。
私は、責任を考える際には、少なくとも「何を知ることができたか」「何を選べたか」「何を変える権限があったか」を確かめるべきだと思う。これは、関わった人を全員免責するためではない。誰に、どの変更を求めるのが妥当かを具体化するためである。
食べる量を決められる人には、その範囲での配慮がある。販売量や納品条件を決める側には、別の範囲の検討がある。制度を整える側には、個別の善意に頼らない条件づくりがある。
共同責任であることと、同量の責任を負うことは違う。責任を広く分かち合うためにも、決定権の違いを消してはいけない。
人物の心がけと置かれた状況を分ける考え方については、基本的帰属錯誤と、原因・責任・再発防止を分ける視点でも掘り下げている。
感謝は、労働の分担や命の扱いを改善する代わりにはならない
命に目を向けることは大切だ。しかし、「命をいただく」という説明だけで食卓を捉えると、その食事を成立させている労働について、十分に考えないまま終わるおそれもある。
家庭内の負担は、その身近な例である。2021年の社会生活基本調査では、6歳未満の子供を持つ「夫婦と子供の世帯」の1日当たりの家事関連時間は、週全体平均で夫1時間54分、妻7時間28分だった。これは調理時間だけではなく、家事、買い物、介護・看護、育児の合計であり、すべての家庭に同じ差があることを意味しない。[8]
この数字から、夫婦間の感謝の有無は分からない。しかし、感謝の言葉と、負担の分担が別の問題であることは確認しておきたい。
例えば、料理を担う人に「いつもありがとう」と伝えながら、献立を考えることも、買い物も、片づけも任せきりにする場合。感謝が嘘だとは限らないが、その感情だけでは相手の負担は減らない。

同じように、生産や物流の仕事を称賛することと、その労働がどのような条件で行われるべきかを考えることは別である。「感謝しているから十分だ」としてしまえば、敬意を示すはずの言葉が、現状を問わない理由にもなりうる。
動物についても区別が必要だ。食べる側が感謝したからといって、飼育や輸送、屠畜のあり方が、それだけで妥当になるわけではない。食べることの是非と、食べる場合の扱い方、そして食べる側の感情は、関連しながらも異なる問いである。
感謝は、相手や対象に目を向ける入口にはなる。しかし、その関係が公正か、負担や苦痛を減らせるかを確かめる作業の代わりにはならない。
それでも、分業をなくせばよいわけではない
ここまでの議論には、二つの反論が考えられる。「食べ物の背景をすべて知ることなどできない」「結局、社会のせいにしているだけではないか」という反論だ。どちらも無視できない。
まず、食べ物に関わるすべての工程を、毎食、自分で確認することは現実的ではない。分業をなくせば、誰かが代わりに生産や保存、調理を担わなければならず、その負担を引き受けられる条件にも差がある。
したがって、「自分で育て、自分で調理する生活こそ誠実だ」と一律に評価することには賛成できない。食を支える仕事を他者に任せることと、その仕事を軽視することは同じではない。
また、「少し高くてもよいものを買おう」という提案にも限界がある。予算、時間、近くで買える商品が違えば、選べる範囲も違う。高い商品を買えることを、そのまま道徳的な優秀さに置き換えてはならない。
一方で、構造の問題を指摘したからといって、自分の選択が無意味になるわけでもない。自分で調整できる購入量や保存方法、家庭内の分担まで、すべて制度のせいにするのは論点のすり替えである。
必要なのは、個人か社会かの二者択一ではない。自分にできる変更と、自分だけではできない変更を分け、後者を共同の課題として扱うことである。
さらに、「分業が進むほど感謝が弱まる」という単純な因果関係を、本稿の資料から結論づけることもできない。生産との距離があっても敬意を持つ人はいるだろうし、現場を知ることが必ず丁寧な扱いにつながるとも限らない。ここでの構造的な分析は、個人差を消す説明ではなく、個人の心だけでは説明できない条件を加える試みだ。
感謝を「心の採点」から、関係の点検へ
では、次の食事から何を変えればよいのか。私は、感謝の感情、食を支える関係の認識、その関係への配慮を分けて考えたい。「いただきます」は、それらを表す方法の一つであって、内面の誠実さを一度で証明する試験ではない。
食卓では、感動よりも具体的な対象を一つ持つ
食べる前に料理を見て、一つの食材、一つの仕事、一人の作り手に目を向ける。どんな生き物だったのか、どんな作業が必要だったのか。分からないことを、知っているふりで埋める必要はない。
毎回、強い気持ちが湧かなければ失敗、とはしない。言い忘れたことに食事中や食後に気づいたなら、その時点で思い直せばよい。これは感情を保証する方法ではなく、私が試してみたい小さな区切りである。
暮らしでは、同じ無駄や負担を繰り返す条件を変える
食材を余らせたときは、反省だけで終わらず、購入量、保存、調理の予定のどこを変えられるかを考える。食事を用意してもらっているなら、お礼を言うだけでなく、準備や片づけを具体的に引き受ける。
無理に食べ切ることを、誠実さの証明にする必要はない。次回、無理なく使える量や分担に変えることも、食べ物や作り手への配慮になる。
社会に対しては、消費者以外の立場も使う
買い物で選ぶだけでなく、店に少量販売を要望する、職場や学校の食事の発注方法を見直す、自治体に食品ロス対策の情報や参加の機会を求める。所属する組織の調達に関われるなら、価格以外に何を確認するかを提案することも考えられる。
個々の行動が必ず望む結果を生むとは限らない。それでも、自分を「よい商品を選ぶ人」としてだけ捉えず、ルールや運用について意見を述べる人として捉える余地はある。
この三つのうち、どれか一つで全部を代替することはできない。買い物に気を配れば家事分担を変えなくてよいわけでも、制度を批判すれば食べ物を雑に扱ってよいわけでもない。
「いただきます」を、考えることの終わりにしない
最初、私は「どうすれば、心からご飯に感謝できるのか」と考えていた。今も、その問いを手放したわけではない。
ただ、感謝の深さだけを点検していると、食べ物よりも、「感謝できている自分」のことばかり見てしまう。命を大切にしたいという思いが、自分の道徳性を確かめる作業に置き換わってしまうのだ。
その視線を、もう一度、食べ物と、それを支える関係に戻したい。
何が見えていないのか。
誰が負担を引き受けているのか。
自分に変えられることと、共同で変えるべきことは何か。
私にとって「いただきます」は、食べることに伴う問題をすべて解決した、と宣言する言葉ではなくてよい。むしろ、関係を忘れないための区切りとして使いたい。
感謝したから、もう考えなくてよいのではない。感謝したいからこそ、その食事が成り立つ条件を考え続ける。
次の食事では、また忘れるかもしれない。それでも、思い出したときに戻る先を、自分の心の採点だけにはしない。その一皿と、そこにつながる命や仕事に、目を向け直したい。
参考文献・出典
資料の最終確認:2026年10月21日。研究の紹介と、それを食事への感謝に結びつける筆者の考察は区別している。文献[3][4]は公開抄録で確認できた範囲を使用した。
- 鈴木公啓「『いただきます』『ごちそうさま』における感謝は誰/何に対するものなのか―明治期以降の資料による検討―」『未来の保育と教育―東京未来大学保育・教職センター紀要―』第12巻、2025年。研究ノート。本文を確認。
論文ページ(DOI) - Karl Marx, Capital, Volume I, Chapter 1, Section 4, “The Fetishism of Commodities and the Secret thereof.” 原著1867年。公開英訳本文を確認。
『資本論』第1巻第1章第4節 - Kunst, J. R., & Hohle, S. M. “Meat eaters by dissociation: How we present, prepare and talk about meat increases willingness to eat meat by reducing empathy and disgust.” Appetite, 105, 758–774, 2016年。公開抄録を確認。
論文ページ(DOI) / PubMed掲載抄録 - Evans, D. “Beyond the Throwaway Society: Ordinary Domestic Practice and a Sociological Approach to Household Food Waste.” Sociology, 46(1), 41–56, 2012年。マンチェスター大学の公開抄録を確認。
論文ページ(DOI) / 大学研究情報ページ - 農林水産省「事業系食品ロス量(2024年度推計値)を公表」、2026年6月30日。環境省公表資料とも数値を照合。
農林水産省の公表資料 / 環境省の公表資料 - 農林水産省「商慣習検討」。納品期限の緩和、賞味期限表示等に関する公式説明を確認。
商慣習の見直しについて - Maniates, M. F. “Individualization: Plant a Tree, Buy a Bike, Save the World?” Global Environmental Politics, 1(3), 31–52, 2001年。著者が公開する論文本文を確認。
論文ページ(DOI) / 著者公開版PDF - 総務省統計局「我が国における家事関連時間の男女の差~生活時間からみたジェンダーギャップ~」『統計Today』No.190。2021年社会生活基本調査に基づく解説。本文・図を確認。
統計局資料PDF
